気まぐれ日記 2011年3月

2011年2月はここ

3月1日(火)「24時間頑張る風さんの巻」
 毎年あっという間に過ぎてしまう2月が、今年も残念ながらそうなって、焦った風さんは、いつもの作戦に出た。夕食後さっさと仮眠して、疲労がとれたころ起き出して、執筆にとりかか
るパターンだ。
 うまい具合に、午前3時半に目が覚めた。
 ようやく筆が進み出した。
 それでも出社時間が進ってきたので、無念の中断。
 昨日に続いて旧職場ヘミッシェルで向かった。
 手帳のTO DO LISTを見ながら夢中で片付けていく。それらの中に会社のパソコンの中のOFFICEのバージョンアップというのがあった。驚くなかれ、2000から2003への更新である。世界のトヨタグループは、今頃一斉にこの処理に取り組んでいるのだ。
 昼食時間もTO DO LISTに組み込まれている。時は金なり。お金はたまらないが時間は貴重だ。
 新職場へ移動中に郵便局に寄って定額小為替を購入した。来週からまた福島の母のところへ行く予定だが、特別介護休暇の申請のために、色々とやることがあるのだ。
 今夜は新職場の戸締り当番で、帰宅が遅くなった。
 自宅でもひたすらTO DO LISTをつぶしていくのだが、どんどん時間が経過していく。
 深夜、長男が書斎のドアをノックした。
 4月から京都でひとり暮らしを始める長男に、ちょっとしたトラブルがふりかかり、その相談でやってきたのだ。「ま、いいや」ですまさず相談にきたことは評価に値する。
 まるで会社の仕事で部下の相談に乗るような感じで、あれこれと知恵を授けてやった。
 就寝時刻が午前3時半になってしまった。
 ということは、今日は、昨日から24時間ずっと起きていたことになる。

3月2日(水)「毎日必死だぜ・・・の風さん」
 起床してから、昨夜やり残していた仕事に気が付いた。
 出社前にやってしまおうかと思ったが、10分や20分でできることではないので、会社でやることにした。
 出社して早速取り組んでみると、やはりかなり時間がかかる。
 やっと完成して、それを一橋大学の先生ヘメールで送ったら、会社のセキュリティシステムにリジェクトされた。これがあるから会社で気持ち良く仕事ができない。
 いちおうこれは会社の仕事だったことを付記しておく。念のため。
 夕方から飛び込みの仕事があった。
 データに基づいて、ある数量を予測する仕事である。
 四則演算だけだが、電卓を叩いているのでは非効率だったので、私がその場でエクセルの計算表を作成し、データやパラメータを変更してもたちどころに計算結果が出るようにした。
 こういったことは、昔、部下をあごで使ってやっていたことで(言葉の表現がきついが、決して部下をあなどっていたわけではない)、マネージャをリタイヤすると、自分でやれるから楽しい(マネージャは基本的に頭を使わなければならない)。
 またたくうちに表が完成していく様子を見て、上司や同僚は感心していた(わっはっは)。
 しかし、これでまた帰宅が遅くなってしまった。
 ミッシェルを運転しながらふとタコメータを見ると、回転数がゼロ近くまで大きく振れている。不安定なのだ。エンジンが止まりそうだった。先日の、再現しなかった不具合が走行中に起きるのではないかと不安になった。
 明朝ミッシェルが始動しないことも考えて、また仕事(確定申告の準備も)が深夜に及んだ。
 発情期がきたちび助の奇妙な鳴き声を聞きながら頑張って、就寝時刻は午前4時になってしまった。

3月3日(木)「高まる緊迫感・・・の風さん」
 週末が近付いてきた。ということは、来週が近付いてきたのだ。時間がなくなってくると、情報を収集することよりも意思決定が大事だ。
 来週、兄貴と相談したことを実行するため、また福島の実家へ行くことにした。
 こうなると、会社の仕事やプライベートの仕事を、できるだけ片付けておかなければならない。
 ということで、密度の高い時間を過ごすことになる。
 定時後、ため息が出る話を聞いた。
 昨年末にタスマニアを旅行した職場の女性の体験談だった。
 タスマニアのことはほとんど知らなかったので、驚きの連続だった。
 世界自然遺産を単身でトレッキングした報告だった。人数制限がされているそうで、1日に60人しから入ることができない。その1人として、1日に十数キロ、合計65km強を踏破したのだが、太古のころから全く変わっていない世界を、たった1人で歩き続けるのは、まさに異次元空間の体験だったろう。デジカメ写真を次々に見せられるだけでも、こちらは似た体験をしたような気になった。私に言わせれば、まるで違った天体にいるような。
 今日は早めに帰宅した。
 母の様子に、また心配なことが生じていた。明日は介護センターヘ電話して直に話を聞こう。
 名商大から手紙が届いていて、講演の日程が確定した。 
 夕食後、書斎に突進し、今夜も悲壮感を漂わせながら、たまっている仕事を処理していった。就寝は午前2時半になった。確定申告の郵送準備が完了したのでうれしい。

3月4日(金)「花粉症の季節がやってきた・・・の風さん」
 朝からやけに天気がいいが、風が強かった。こういう日は、花粉症が出る恐れが高い。
 出社途中で、確定申告の書類をポストへ投函した。
 前から気になっていた、昨年の学位論文を収録したCDを、やっと職場内に配った。
 17日にもらえる論文賞の表彰状を見せ、新刊をお披露目して、職場内ミニ講演会ができれば、新職場での私の存在感は、いくらか固まるだろう。
 昼前に本社へ出張した。
 依然として風が強い。
 昼休みに介護センターへ電話して、母の様子を確認した。
 昼食後、部長と面談し、その後、一橋大学の先生と打ち合わせた。
 今夜は戸締り当番だったので、いくらか時間がある。たまっている仕事を急ピッチで片付けた。
 ところが、残業して遅くなるという同僚の申し出で、戸締り当番を引き継いでもらった。
 それで、帰宅が少し早まった。
 このころには完全に花粉症が出ていたので、最初から強い薬を飲んだ。
 夕食後、リビングでダウンした。

3月5日(土)「終日書斎にこもりっきり・・・の風さん」
 久しぶりにリビングで朝を迎えた(笑)。
 朝から鼻がぐずぐずするので、強い薬を飲んだ。
 昨夜できなかった雑用から始めた。
 日本推理作家協会のハガキ随想を仕上げたのは、新刊の宣伝をしたかったからだ。
 今日は、午前中に兄貴が来週母を連れて行く病院へ相談に行っているはずだ。
 午後、また介護センターへ電話して、今日の母の様子を尋ねた。不思議なくらい落ち着いている。不気味でもある。
 兄貴は事前の準備を完璧にやってくれたことを電話で伝えてきた。母をみてもらう日は10日(木)に確定した。
 こうなると、あとは私が母を連れて行くだけだが、これが相当に手ごわいのだ。
 来週の原画展の案内ハガキをまとめて送る準備もした。
 乗らない日もエンジンをかけないと、また不調になるような気がするので、夕方、ミッシェルのエンジンをかけてみた。問題なく始動した。
 来週のTOEIC受験のため、パソコンソフトで練習をちょっとした。
 その後、いけるところまでいこうと、執筆に取り掛かった。
 発情期のちび助が、今夜も変な声で鳴いている。

3月6日(日)「私もボケ始めているらしい・・・の風さん」
 昨夜から今朝の6時半まで頑張ったが、さすがに眠くなったので、書斎で寝た。
 2時間半後に起き出した。
 いつまでも寝ているわけにはいかない。
 今日も、花粉症の強い薬を飲んで1日をスタートした。
 サンルームから庭を眺めると、梅が満開である。
 昼食時に最後のみかんを食べた。昨年末に知人からもらったみかんがたくさんあった。地元で作られた、外観は悪いが甘いみかんである。それを食事のたびに1個あるいは2個と食べているのは、我が家で私だけである。それがとうとうなくなった。完食するのに2ヶ月以上かかったのだから、いかにたくさんもらったか想像できよう。
 執筆を続けながら、原画展のお知らせをメールしたり、電話で母の様子を介護センターに尋ねたりした。
 こうして、あっという間に夕方になり、昨日に続いて、ミッシェルのエンジンをかけてみた。今日も問題なくエンジンがかかった。
 夜になって雨が降り出した。
 明日は花粉症は出ないかもしれない。
 深夜まで執筆を続けたが、思ったところまでできない。
 私の頭脳も急速にボケ始めているようだ。やれやれ。

3月7日(月)「実家へ帰る準備・・・の風さん」
 昨日の雨が、関東地方では雪になったらしい。
 庭の梅は満開なのに、おかしな天気だ。
 昨夜私は、午前3時過ぎまで執筆を頑張ったが、最後は力尽きた。今朝は寝坊した。
 今週も母のケアをするため実家へ行く。
 今日はその準備で多忙だった。そもそも詳細なスケジュールができていなかったからだ。
 事前の準備ができていないと、また大きな荷物を持って、何もせず、また持ち帰ることになる。
 それは避けたかった。
 往復の交通手段を決めるだけでも大変だった。そして、現地でのレンタカーの予約も。
 介護センターに電話したら、今日も特に大きな異変は起きていないようだった。
 それはそれでありがたいことだが、病院へ連れて行くのはやはり困難かもしれない。
 発情期のために変な声で鳴き、変な行動をしていたちび助が、昨日からおとなしくなっている。
 何事も波があるのかもしれない。
 5月の講演日程が一つ確定した。来月から8月まで毎月何かある。
 これで、貧乏ヒマなしと堂々と言えるのだから、誰も信用してくれない。でも、真実である。
 帰宅するまで、またしばらく気まぐれ日記はこのままで〜す。

3月8日(火)「家族の日・・・の風さん」
 相変わらず生活のリズムは乱れている。
 今朝寝たのが午前4時過ぎだったか5時過ぎだったかも覚えていない。
 午前9時の目覚ましで起床した。外は明るかった。晴れているのだ。昨日は雨上がりで(昨日っていつだ?)、東京は明け方雪が降っていたことをメールで知った。パリはどんな空模様だろう?……なんちゃって。
 余裕で自宅を出発するはずだった。
 早々と長男が大学へ出かけていたので、胸騒ぎがしたのが、ちょっとした誤算につながった。
(確かアパートの契約書にサインしなければいけなかったはずだが……)
 出発寸前に、テーブルの書類の束の下に、契約書を発見した。写し含めて3枚あり、父親が書き込む部分が鉛筆で囲まれていた。
(ちゃんと言ってから出かけろよ)
 愚痴をたれながらも、仕事を放り出さないところが父親の自覚(弱み)だろう。
 急いで本籍、現住所、勤務先などを書き込み始めたが、予定した電車に間に合わなくなった。
 東京に20分遅れで着いたので、ギャラリーオキュルスに寄っている時間を20分短縮して、当初計画に復帰させた。
 郡山駅で介護センターに今日の母の具合を電話で尋ねると、買い物に出かけるほど元気らしい。
 団地まで乗ったバスに、民生委員のIさんがいた。
 兄貴のところへ寄って書類を受け取り、母の家へ向かった。
 本当に元気な母が出てきたので、うれしかった。

3月9日(水)「雪、みぞれ、雨の福島・・・の風さん」
 久しぶりに普通の時刻に寝て普通の時刻に起きた。
 そのとき既に母が起きていたので、だいぶ元気になっているのをあらためて実感した。
 そのせいかどうか分からないが、空は青く快晴だった。
 母の調子は良さそうだが、私の花粉症は最悪だった。通常の薬が効かないので、とうとう強い薬を服用した。
 午前中の自由時間は(笑)読書にあてた。
 昼食後、私だけ出かけた。
 外へ出ると、なんと小雪がちらついていた。いつのまにか空もどんよりとしている。寒い。
 バスで郡山駅まで行き、予約してあったレンタカーを借りた。
 明日、母を連れて行きたい病院を下見した。信じられないくらい近くにある、きれいな病院だった。うまく連れて来れたらいいのだが、成功の確率は10%未満だと思う。
 続いて、先月も利用したケータイショップへ行き、私のケータイの料金プランを2ランク上げた。先月その処置をしていれば、今月からもう少し落ち着いて電話できたのだが、仕方ない。来月からだ。
 みぞれから雨に変わった空模様の下、4月から客員研究員をやらせていただく日大工学部を訪問した。
 教授の席から院生室、研究室すべてが大部屋になっているところへ案内された。若い人が多くて楽しそうだ。しかも礼儀正しい若者ばかり。日本の将来は明るいと思った。
 私の名刺のひながたができていて頂戴してきた。
 約1時間半歓談してきたが、たくさん喋ったので、私はもうネタ切れだと思われたろう(笑)。
 私がやるべきことは、これから自分で考えて提案しなければならない。
 それまでは、研究室のPR活動で協力することになる。
 レンタカーで帰宅したら、母はずっと昼寝していたらしい。昨日遠くまでタクシーで買い物に出かけているから疲れているのだ。
 明日の成功を祈りつつ今夜は就寝することになる。

3月10日(木)「帰省の目的を達成・・・の風さん」
 目覚ましをかけてあったので、7時に起床できた。
 空は青空である。出陣には幸先良い天気だ。
 今日は母より私の方が先に起きたので、マイペースで準備できた。
 が、朝食は、パンを食べようと思っていたのに、どこからか出てきた古いご飯を使って、母がおじやを作ってくれたので、それを食べた。腐ってはいないようだった。腐ってない限り、私は何でも食べる(スイカ以外は)。
 母には、ホットミルクとブルーベリーヨーグルトを用意してあげた。
 案の定、今日病院へ行くことを母は忘れていた。まったく記憶のかけらも残っていないようだった。
 とにかく急がず焦らずゆっくりと時が満ちるのを待つしかない。
 ようやく9時半に家を出た。
 近所のクリニックで、心臓の具合がだいぶ良くなってきたことを確認し、かねての打ち合わせ通りに、医師が「物忘れを診てくれる病院を紹介するから、その気になったら診てもらいなさい。無理しなくていいよ」と言ってくれた。
 母は、「物忘れはあるけど、診てもらうほどじゃない」と立派な応答をした。
 そんなことでうろたえていては何もできない。
 私は平静をよそおいつつ、母を乗せて、しゃあしゃあと目的の病院を目指した。
 目的の病院は外観がとってもきれいなので、母は特に警戒することなく中へ入った。
 首尾よく予約してあった医師に診てもらい、薬の処方もしてもらったし、私は一人で、認知症患者の入院病棟も見学させてもらった。
 はっきり言って、母を入院させたくないと強く思った。そういう病棟風景だった。
 外へ出ると、空は晴れているのに小雪が舞ってきた。外気温は1℃である。寒いのだ。
 帰りに母とラーメンを食べた。半分近く食べてくれたので、だいぶ元気になっているのを感じた。これで認知症が軽くなれば言うことなしなのだが……。
 帰宅して二人で昼寝してしまった。それぞれ違った意味で疲れたのだ。
 午後、介護の人が来てくれて、明日から夕方来てもらうことと薬の処方について話し合うことができた。
 そして、新しい薬を母に飲ませた。
 また疲れて寝てしまった。
 暗くなってから買い物に出かけた。
 帰宅し、猫のトイレの砂をかえたあと、夕食にした。
 母がビビンバを気に入って食べてくれた。やはり着々と元気になっている。
 とはいえ、今日から追加した認知症の薬のせいで、母はすぐ寝てしまう。
 私はこれから明日の準備だ。

3月11日(金)「帰宅難民・・・の風さん」
 今朝の5時前に、企画書の改定版を作成し、メールで送ってから少し寝た。
 2時間ちょっと寝て起きた。
 今日も母の起床はやや遅かった。
 新しい薬の副作用が気になったが、母の様子に異常は感じられなかった。
 火曜日の夜買ったパンとホットミルクで朝食にした。
 母にはホットミルクとブルーベリーヨーグルトを食べてもらった。
 出発する私を母は冷静に見送ってくれた。
 私も仕事をした充実感に浸ることができた。
 スムーズにレンタカーを返し、予定より早いやまびこに乗ることができた。
 東京駅で買い物をしてから、最初の目的地へ向かった。
 実は、昼食を摂る時間がなかった。
 岩波書店の編集者と待ち合わせて出かけた、深川江戸資料館見学中に大事件が起きた。
 大地震である。大きな揺れで、しかも長い。いつまでも揺れている。新潟地震、宮城県沖地震を経験している私でも、この揺れの継続時間の長さには、非常に不安になった。
 館内の見学者は皆冷静で、パニックは起きなかったが、ロビーへ避難した後も余震が続き、ケータイはつながらないし、とても困った。
 まもなく資料館の人から、宮城県沖あたりが震源地だと聞いて、胸騒ぎがし出した。東京でこれだけ揺れたということは、母のいる福島県はもっと揺れたはずだからだ。
 編集者が「公衆電話なら回線が違うのでつながることがある」と教えてくれたので、試してみたら本当につながった。
 それで、何度も電話をかけて、ようやく、母が生きていることだけは知ることができた。
 電車も地下鉄も止まっていたので、編集者とバスに乗って秋葉原駅までたどり着いた。
 そこは人、人、人で大混雑していた。皆、自宅へ帰りたいのだが、電車も地下鉄も止まっていて帰れないのだ。
 私は歩いて社へ帰るという編集者と別れ、タクシー乗り場に並んだが、駅へ戻ってくるタクシーなど1台も見なかった。
 それで、午後7時前に早くも「今夜は秋葉原泊まり」と覚悟した。
 帰宅難民という言葉は少し後で知った。
 しかし、ホテルやインターネットカフェなどは既に満杯だった。
 レストランやカフェも、通常の営業時間を短縮してさっさと閉店してしまう。
 モバイルパソコンのアプリルで、インターネットのニュース映像を見続けたことで、私は、とんでもない大地震と津波が起きていることを知った。そして、学校や公共の施設が、帰宅難民を受け入れていることを知った。
 最初は、秋葉原駅構内が開放されていて、そこで一夜を明かそうと思ったが、寒くて寒くてとても寝られないと思った。
 そのうち駅員から、近くのUDXビルが開放されていることを聞き、構内で知り合った若者と一緒にビルへ向かった。
 確かにビルは開放されていて、我々は5階の広いエレベータホールに入ったが、駅の構内と違って、昼間の余熱が残っていて、天国のようだった。
 床在も冷たくなくて、寝そべっている人がたくさんいた。
 私は「ここで一夜を明かそう」と決意した。
 若者と午前3時半まで身の上話などをし、その後疲れて寝てしまったが、若者は妻子の待つ自宅の様子が心配で、私よりも早く起きて出発してしまった。通勤電車は動いていないので、最後は歩く覚悟で出て行ったのだ。

3月12日(土)「奇跡的に助かった母・・・の風さん」
 私は7時に起きたが、山手線が安全点検中で動いていなかったので、地下鉄を乗り継いで東京駅まで行き、座席の空いている最も早い新幹線で帰った。
 自宅に着いたのは、午後1時である。
 東京では、あと二つの仕事をしようと思っていたが、結局できなかった。
 二日間ろくに睡眠をとっていなかったので、昼食後、ダウンした。
 昨日の地震のあと、母の元を訪ねたヘルパーさんの情報で、母のいた茶の間はほとんど被害がなかったそうだ。
 震度6を計測した地震で、これも奇跡としか言いようがない。
 なぜなら、母は茶の間のコタツで寝ていることが多いのだが、そばに食器戸棚があり、もし倒れたら、間違いなく母を直撃するはずで、当たり所が悪ければ即死は免れないのだ。
 考えるだけで身の毛がよだつ。
 明日TOEICの試験があるので、なるべく早く帰ってきたかったのだが、全国規模で開催されるTOEICは中止になった。
 正直ホッとした。
 しかし、こうなると来週の17日の日本機械学会も中止になる可能性が高いと思った。そうなると、私の論文の表彰式はないことになる。それはちょっぴり残念だ。
 まだ疲労がとれなかったので、その後は大地震のニュースを見て過ごした。
 未曾有の大災害に絶句するばかりだった。
 そして、不幸の現場のなんと多いことか。涙があふれて仕方ない場面も多い。こういう場合、この悲しみと怒りをどこへぶつけたらいいのだろうと思う。
 テレビを見ているだけで、心が重く、ぐったりするほど気持ちが疲れてしまった。
 
3月13日(日)「長男の卒業作品・・・の風さん」
 目覚めたら、昨日帰宅したときと同じ格好で、まだリビングにいた。
 これじゃ帰宅しても難民と大差ない(笑)。
 ゆっくりと入浴して、とにかく気分をさっぱりさせた。
 TOEICがなくなったので、長男の大学の卒業記念作品展を見にワイフと出かけた。
 時間を節約するため、ミッシェルで高速をぶっ飛ばした。
 作品展の開催されている場所は愛知県美術館である。
 長男の作品は建築模型で力作だった。
 帰宅しても大地震のその後が気になって、とても仕事をする気になれなかった。
 悲惨さは日を追うごとに増している。
 とうとう今夜もテレビを見て過ごしてしまった。
 
3月14日(月)「ワイフに弱点をグサリ・・・の風さん」
 久しぶりに出社した。変な気分だ。
 TOEICが中止になったことからも予想していたことだが、17日(木)の日本機械学会の開催も中止になってしまった。
 老いぼれの私にとってはまあいいとして、若い人にとっては晴れの舞台だったろうから、気の毒である。
 母の介護で新たな問題が発生した。
 ヘルパーさんが、ガソリンがなくて巡回サービスに行けないというのである。
 それで、あれこれと考えたのだが、結局、兄にヘルパーさんの送迎をしてもらって、今日の介護を完了した。
 やれやれ。
 職場で、先週の帰宅難民の経験談や母の介護の苦労話をしたら、皆同情してくれた。
 帰宅したが、今日はテレビを観ないことにした。キリがないからだ。
 新聞を見ていたら、ワイフが好きだった元宝塚トップスターの大和悠河の写真が出ていた。すっかり美しい女性になっている。引退してかれこれ2年ほどになるので、完全に女性に戻ったようだ。
 「美しい〜!」と私は感嘆の声を上げていたのだが、ワイフの感情は動いていない。どうやら、男役の大和悠河に惚れていたようだ。
 ところが、
 「へえー。そうかな。でも、誰かに似ていると思わない?」
 とワイフの冷たい視線が私を刺した。
 「???」
 「チャンツーイーよ」
 (おおっ。確かに)
 「あなたの好みのタイプなのよ」
 こちらの弱点をしっかり把握されている。恐ろしいことだ。
 
3月15日(火)「一難去ってまた一難・・・の風さん」
 出社してすぐ介護センターへ電話した。昨日のお礼を言ってから「今日もよろしく」とお願いした。
 さあ、今日こそは落ち着いて仕事ができるぞ、と思ったのもつかのま、事態は急変した。
 原発のトラブルで緊張が高まっている福島県である。
 介護センターの方針が職員の安全確保に傾いてしまったため、営業中止となったのである。
 しっかり連携のとれているヘルパーさんから、申し訳ないという意味の電話が入った。
 本当のところは、被爆を恐怖するヘルパーさんが出てきたらしい。
 私が経営者だったら、「これからは私自身が巡回サービスに出て陣頭指揮をとります。被爆を恐れる方には無理は言いません。でも、もし勇気をもって介護サービスを続けてもいいという方がおられたら、一緒にやりましょう」と言うだろう。
 しかし、実際はそうはならなかったわけだ。
 結局、今日は、地元の民生委員の方が代わりにやってくれた。
 いよいよ原画展が近付いてきたので、画家の高山ケンタさんへ最近考えていることをほのめかした。
 それは、今回の原画展に復興支援のチャリティの意味をもたせることだった。
 すると、すぐ返って来た返事は、「僕もそう思っていますよ」だった。
 うれしかった。
 とにかくアイデアを出して、可能な限りの準備をしよう。
 今日の私は、会社の仕事も忙しかった。

3月16日(水)「5日目の朗報・・・の風さん」
 大学の研究室のOBで作っているメーリングリストがある。
 今回の大震災の後、安否確認や消息調査に利用されていて、非常に役立っている。
 宮城県塩釜市の知人の消息が分からなくなって、今日で5日目だった。
 さすがに5日目ともなると、絶望的な気分になる。ついつい涙が出そうになる。
 そんなとき、朗報があった。
 ケータイで自宅へ来ているメールをチェックしていたら、ご家族含めて無事との情報が入っていたのだ。
 うれしくて、メーリングリストに書き込んでしまった。
 それにしても、googleでも171でも情報が得られず、本当に気分が落ち込んでいたのだ。
 ただし、171について言えば、朗報が飛び込む前に、念のために、今朝、直接自宅へかけてみた。
 もし家が流されていたら、呼び出し音も鳴るはずがないので、怖くてかけられなかったのだ。
 だから、171−2を利用していたのだ。
 しかし、勇気を出して今朝かけてみたら、なんと、呼び出し音が鳴り、すぐに応答があったので、驚いた。
 実は、間違い電話で、古い電話番号(秋田県だった)へかけていたのである。
 今となっては笑い話だ。
 帰りに大型家電ショップに寄って、郵便で届いていた抽選番号をチェックしたら、かすっていた。これから運は上昇するかもしれない。

3月17日(木)「やっとの思いで母に薬を飲ませた風さんの巻」
 福島の母の環境は依然として悪い。
 一昨日、母の薬の投与は民生委員がやってくれたと思っていたら、その後、それはなかったことが判明した。
 昨日も母は薬を飲んでいなかったことが分かった。
 このまま行ったら、心筋梗塞がぶり返して死んでしまう。
 今日は何が何でも薬を飲ませなければならない。
 私はあちこちへ電話をかけて協力を要請したが、じきにかける相手がいなくなってしまった。
 本当にやばいことになってきた。
 それで、いちかばちかと思いつつ、母の家に電話したら、奇跡的に母が出た。
 出たのはいいが、耳が遠いので、先ず、大きな声で話さなければならない。次に、頭脳がだいぶいけなくなっていて、まともに話が伝わらない。ほとんど幼児以下に話をするようなものだ。
 それでも、粘り強く、薬を飲ませようとがんばった。
 実に20分以上もかかって、どうやら飲ませることに成功したようだった。
 口先だけ調子を合わせたり、平気で嘘をつくので、実際にこの目で見ないことには安心できないのだが、これ以上はできないのだ。
 また明日電話することを伝えて電話を切った。
 激しい疲労感が残った。
 今日は、本来は日本機械学会生産システム部門の講演研究発表会があり、夜の懇親会で論文表彰を受けるはずだったが、地震のために学会の開催そのものが中止された。
 明日、上京するので、そのとき賞状をもらえるかとメールで尋ねたら、「ぜひいらしてください」とのことだった。
 もしかすると誰よりも早くもらうことになるかもしれない。

3月18日(金)「震災復興を祈念するパーティ・・・の風さん」
 昨日も疲れて帰宅したので、夕食後ダウンした。
 今朝は4時に目を覚まして、行動を開始した。
 今日は、新刊『星空に魅せられた男 間重富』の原画展の初日なのである。
 準備がまだたくさん残っていたので、必死に取り組んだのが、出発時刻までにすべてを終えることができなかった。
 朝から花粉症がひどく、おまけに数日間続いていた緊張感のせいか口内炎までできていて、舌が痛くてしょうがなかった。
 これでは作業が効率よく運ぶわけがなかった。
 今夜のパーティを手伝ってもらうワイフを連れて、家を出た。
 行きの新幹線の車中では、早くもぐったりしていた。
 信濃町にある日本機械学会事務局に直行し、賞状をもらった。
 昼食後、原画展の開催されるオキュルスへ行ったが、既に午後1時半になっていて、帰ってしまったお客さんもいた。
 節電のために電車の本数が減少し、停電に対応しなければならない人も多いので、見学を断念する人や、来れても日中ということになるのだ。仕方ないことだ。
 今回の原画展をあえて実行したのは、主催者側で相談した結果である。
 震災後ではあるが、お互いの無事を確認し合い、被災地に思いをいたすことと、復興のために自分たちでできることをしようと考えたからである。
 私は、新刊本をまとめて買い上げ、持参してきた拙著とともに、期間中販売し、その売り上げをすべて義援金にしようと思った。
 パーティには趣旨に賛同してくれた知人が実にたくさん来てくれた。
 十分なもてなしはできなかったが、何とか趣旨を伝えることはできたと思う。
 へとへとになったが、近所に宿を予約してあったので、ワイフと歩いて向かった。
 数棟からなるホテルだが、節電のために1棟を閉鎖していた。
 服を着たままベッドにダウンしてしまった。
 
3月19日(土)「原画展二日目・・・の風さん」
 昨日からまたさらに気温が上昇した。
 震災があったが、春は確実に近づいている。
 ホテルは節電に協力しているので、宿泊棟を限定して使用している。そのお陰で、当初予約したプランよりも格上の部屋に泊まることができた。
 しかし夕べは、最後は服のままベッドに倒れ込んで、そのまま朝を迎えたのだった(笑)。
 こうなったら、元をとるのは、あと朝食しかない。ということで、貧乏人代表の風さんとしては、これまた通常よりも数を限定されたレストランにワイフと直行することになったのだが、花粉症と口内炎で、体調はどん底だった。これでは、腹一杯食べることなど無理だった。
 よく考えてみると、昨日は4時起きで、朝食抜き。やっとお昼にごちそうにありつけたのだが、口内炎が悪化してしまい、夜のオープニングパーティでは、紙コップ1杯のワインをすすっただけだった。
 それでも、口内炎にやさしい食べ物を選んで、何とかまともに腹の中へおさめた。
 午前中、ワイフと行きたいところが近所にあった。ところが、節電のために当面休業すると貼り紙がしてあった。
 それで、またオキュルスへ顔を出したら、元気なお客様がみえていた。66歳の方で、もう30年以上電車では座ったことがなく、肩凝りや疲労感など経験がないとのことだった。画家の高山ケンタさんのファンで、俳句を3つひねって、風のように走り去って行った。
 その後、元国立天文台教授の木下先生がいらっしゃった。今年の岩手県一関市博物館主催の「和算に挑戦」で優秀賞をとられたのだが、震災の被害のことを心配しておられた。そう。授賞式のときには、まさ地震や津波が襲ってくるとは思っていなかったのだ。
 オキュルスにいればいるほど、どんどん知人がやってきて帰れなくなるので、そこらで失礼して家路についた。
 帰りの新幹線でも爆睡状態だった。

3月20日(日)「執筆に着手・・・の風さん」
 庭の梅はもう盛りを過ぎて、しぼんでいくばかりだった。
 それでも気温が高く、寒さに震える被災地に申し訳なく思う。
 うちの黒猫のちび助が(いちおうメスです)、発情期でおかしな声で鳴く。おかしな姿勢で喉を鳴らす。動物の本能というのは自然の巡りと同じなのだろう。
 しかし、自由に外へ出して、奔放な恋をさせてはあげられない。飼い主の勝手で、子猫の面倒が見られないから、やがて処置をすることになる。自然に対する冒とくだろうか。
 今日こそは執筆の挽回を、と決意しているのだが、今週また母のところへ行くのに、交通手段が不安である。ちょっと確かめてみたところ、ようやくバスが運行を始めたようだ。しかし、ネット予約ができない。これはかなり厳しいかも。
 今日も花粉症と口内炎で苦しい。気分が重く、元気が出ない。
 それでも、夕方からやっと執筆に取り組み始めた。
 地震発生以来、非常に生活のリズムが狂っている。
 もともと遅い執筆速度だが、何とかピッチを上げなければ。

3月21日(月)「生産設備を使った実験に成功・・・の風さん」
 昨年からの予報通り、今年の花粉の飛散は悲惨である(笑)。
 加えて、先週から口内炎でも苦しんでいたので、絶えているだけで非常に体力を消耗する。さらに執筆が遅れに遅れていて、精神的にもまいっていた。
 とはいえ、こうなったらもう、やるっきゃない。
 昨夜就寝前に花粉症と眼精疲労の薬を飲み、今朝は朝食後に、花粉症と体調を整える薬を飲んだ。
 それで、元気よくミッシェルで家を出た・・・のだが、最初の出張先で駐車場が満車というハプニングがあった。
 変なところに無理やりとめるわけにいかないのが、会社のきゅうくつなところだ。
 待っていても空きそうになかったので、次の出張先(旧職場)へ向かった。
 最初の出張先での用事はそれほど重要ではなかったが、こっちは重要だった。
 先ず、まもなく産休に突入する女性に出産祝いを先渡しした。日本の将来のことを考えると、私が100冊の本を書くより、一人の女性が赤ちゃんを産むことの方が100万倍価値がある(計算根拠を問わないこと)。
 次に、現場で設備の改善実験をおこなった。
 震災で自動車メーカーが生産できない状態が続いている。
 それで部品メーカーも連動して生産がストップしているのだ。生産設備の実験にはチャンスだった(しかし、いつまで続くのだろう)。
 実験は見事に成功した。ちゃんと設計した私の部品が、現場の勘コツ作業を超えたのである。
 朝からずっこけて、今日はどうなるかと思ったが、最後に挽回できた。

3月22日(火)「ちび助入院・・・の風さん」
 本社に寄って用事をしてから新職場へ出社した。
 昨日、運良く高速バスのチケットの予約ができた。新宿と福島県郡山を往復するバスである。
 東北新幹線の復旧の目処が立っていないので、福島の母のところへ行く手段で困っていた。それが、高速バスが運行するようになったので、週末にインターネット予約に挑戦したのだが、さっぱりつながらなかったのだ。多くの人たちが殺到したせいだろう。今日、再挑戦で目的を果たした。
 明日から母の介護のためにまた福島へ行くので、今日は可能な限り仕事を片付けておかなければならない。
 それで、とにかく余計なことは考えず、ひたすら仕事に取り組んだ。
でも、思ったほどできなかった。これだけ夢中でやってもたいしてできないのだから、やはり私はノロマなのかもしれない。
 帰宅したら、ちび助がいなかった。とうとう避妊手術を受けるため入院したのだ。ここ1週間、発情しまくりだったので、はたで見ていて気の毒だった。それが自然の摂理ではあるのだが。
 
3月23日(水)「奇跡を信じたい・・・の風さん」
 昨夜、晩御飯を食べた後、疲れがドッと出てダウンした。
 目が覚めたら幸いにもまだ午前2時だった。
 シャワーを浴びて気持ちをシャキッとさせてから、やりかけの仕事に取り組んだ。
 しかし、出発前にすべてをやり終えることはできなかった。
 落ち着いて朝食を摂る時間もなく、最後はトーストをくわえたまま家を出た(笑)。
 名古屋までは電車の中でうつらうつらしていた。
 新幹線は、信じられないくらい空いていた。震災の影響で関東地区での仕事が停止または停滞しているのだ。
 存分にスペースを使って、資料を読んだりして過ごした。
 手に入れたチケットの高速バスは新宿から出る。
 それまで出版社の編集者と打ち合わせをした。震災のあった11日に終えていたはずの打ち合わせである。あの日以来、それまで高密度にこなしていた仕事がきわめて不規則で非効率なものになっていた。そろそろ本来のペースに戻さなければならない。
 そういう意味で、有意義な打ち合わせだった。
 東北道は、大型トラックと警察と自衛隊の車ぐらいしか走っていなかった。
 速度制限が厳しく、あちこちで道路工事中だった。地震で路面が損傷を受けたのだ。
 休憩で寄ったサービスエリアもあちこち工事中だった。
 予定より30分遅れて郡山駅に着いた。駅は閉鎖されていて中に入れなかった。
 郡山市内は車の通行が通常の半分くらいだった。ガソリンスタンドはほとんど営業していなかった。
 原発事故の影響で農家が出荷できず、ようやく送られてくる支援物資もより悲惨な岩手県や宮城県へ優先的に送られているせいか、ここは品薄状態だ。
 震災発生以来母も入ったことがなかった二階の自分の部屋に、おっかなびっくり入ってみたら、信じられないことに、こけしが棚から落ちて散乱していたぐらいで、ほとんど何事もなかったような状態だった。
 今日も何度も福島県では余震があったが、母の家は揺れが小さい! これは奇跡だ。地盤が堅固なのか振動を吸収する地層があるのだろうか。
 2週間前から薬を飲んでいる母は、何となく落ち着いているように見える。薬が効いているのならいいのだが。

3月24日(木)「主夫の一日・・・の風さん」
 春らしい陽気の一日だった。
 私は普通に起床したのだが、既に母は起きていて、母親の本能でご飯を炊いていた。おかずがないのに(笑)。
 きんぴらごぼうでご飯を二杯食べた。
 午前中タクシーで出かけた。ガソリンスタンドは給油を待つ車で長蛇の列になっていた。それが交通渋滞を誘発していた。
 先ず病院へ行き、母の症状を説明して、切れかけている薬の処方をしてもらった。今度は4週間分。
 またタクシーを呼んで、近くのスーパーへ行ったが、店は閉鎖で、入り口付近で朝市みたいな販売をしていた。
 少しだけ購入し、またタクシーを呼んで帰宅した。
 昼食はお茶漬けと卵かけご飯。
 実家のすぐ近くのスーパーへ行ったら、もう少し買い物できたが、品薄感は否めない。いちおう晩御飯になりそうなものを調達した。
 部屋の掃除をしたり、屋内で飼っている野良猫用のトイレの掃除をしたりしているうちに、疲労感が募ってきたので、昼寝した。
 目が覚めたら朝から晴れ渡っていた空がどんよりしていた。天気はやや下り坂なのだろう。
 毎日来てくれる訪問介護の人が来て母の薬の服用を世話し、市役所の福祉課の人や近所の民生委員の人と電話で話しているうちに、晩御飯の時刻になった。
 今夜の母は、カップにお湯を注ぐだけのアサリの味噌汁を、美味しい美味しいと喜んで飲んでくれた。
 やっと自分だけの夜の時間がやってきた。
 昨日退院したちび助は、もう以前のおてんばに戻っているらしい。

3月25日(金)「短期間の帰省から帰宅・・・の風さん」
 からくも購入できた帰りのバス切符は、今日、郡山駅10時17分発の臨時便あぶくま号である。この便以外の空席は全くなかった。
 実家の近くのバス停まで行ったら、やっと動き出した福島交通バスは「休日ダイヤ」だったので、また実家へ舞い戻り、生ゴミを捨てに行ってから、またバス停へ向かった。
 郡山駅まで約40分。あちこちの道路に亀裂が走ったり、陥没したりしていた。駅に着くと、あいかわらず駅ビルは封鎖中で、修理工事の業者が出入りしていた。駅周辺の商店街も、ほとんどがシャッターをおろして臨時休業である。
 今日から一般車両の通行も許されたので、高速道下り車線は活気づいていた。しかし、レジャー客など一人もいないだろう。皆、深刻な問題で北を目指しているのだ。
 20分近い遅れで、節電中の東京に着いた。東北に比べれば人があふれているが、決して明るいムードではない。パチンコ屋も「節電中」と貼り紙がしてあり、バスの窓から眺めても、屋内は普通のオフィスのように見えた。
 新宿で会社の仕事をし、原画展最終日のオキュルスに寄ってから、帰りの新幹線に乗り込んだ。原画展に持ち込んだ拙著は、半分くらいしか売れていなかったので、義援金が目減りする。できれば、大阪でも原画展をやって、義援金を増やしたい(なんともキャッシュをもたない人間はこういうときに弱いな)。

3月26日(土)「文章サークル・・・の風さん」
 朝から冷たい強風が吹き荒れていた。春一番ではない。花粉と黄砂の混じったいやな風だ。
 今日はもともと埼玉大学を定年退官される岡部先生の記念講演会と懇親会が予定されていたが、福島のことや明日の長男の引越し手伝いなどで、欠席連絡をしていたが、震災発生で5月に延期になった。できれば参加したい。
 遅れている原稿をとにかく挽回しようと、朝から書斎に籠もった。
 注文した新刊がどっさり届いたので、紹介を兼ねて、夕方から文章サークルを開催した。
 出席してくれたメンバーに、テキスト代わりに新刊を買ってもらった後、持ち込まれた原稿用紙1枚程度の作品の発表と合評になった。
 今回も議論に値する作品で、私自身、とても勉強になった。このサークルで一番メリットを感じているのは私かもしれない。今後も続けよう。
 メンバーの中で雑誌に投稿した作品が優秀賞を受賞している人がいる。2年連続の受賞とのことで、昨年の作品を読んですぐ分かったが、非常に力のある方だ。目標になる人がサークル内にいることは理想的で、将来が楽しみである。
 帰宅し、夕食を摂ったら、また猛烈に眠くなってしまい、そのままリビングでダウンした。

3月27日(日)「長男の引越し・・・の風さん」
 運良く午前1時に目が覚めた。きっと体力が復活したに違いない。
 シャワーを浴びて、さらにスキッとさせて執筆に取り組んだ。
 午前7時ころに、何とか水準最低レベルまで到達した。
 今日は、午前9時出発でクルマを運転して京都まで行くので、少しは寝ておかなければならない。
 約1時間の睡眠をとった。
 今年名古屋芸大を卒業した長男が、今度は京都の精華大学へ入学する。4年前の受験で不合格になったのだが、今年、見事合格したのである。名古屋芸大での4年間は無駄ではなかったようだ。
 これを我が家では、就職扱いとすることにした。学費などは援助しない。しかし、就職して一人暮らしを始める場合の援助相当のことはするのである。長男にとっては厳しい学生生活が始まるが、好きなことをやれるのだから、これからどうなろうと後悔することはないだろう。
 高速道路はまだ休日千円が続いている。だから、何かあるとすぐ渋滞する。
 それでも、昼過ぎにアパートに着いた。ワイフは「京都だ。京都だ」と観光気分である。
 ワンルームのアパートはけっこう贅沢な作りになっていた。しかし、二重サッシではなく、道路に面しているので、騒音は大きい。寒がりの長男にはフローリングの床も冷えるだろう。
 昼食はコンビニ弁当ですませた。
 ガス屋が来てガスも通った。
 それからホームセンターへ買い物に出かけた。カーテンや洗濯機、自転車などを購入した。
 早めの夕食をファミレスですませ、再びアパートへ戻った。
 買い物を運び込んで、これで引越しは完了である。
 長男にとって初めての一人暮らしが始まる。
 ということは、私たち夫婦にとっても初めての長男のいない生活が始まるのだ。
 家路についたクルマの中で、ワイフは寂しそうだった。赤ん坊のときから手塩にかけて育て上げたのだから。
 午後11時半に無事帰宅した。

3月28日(月)「非常勤の準備・・・の風さん」
 午後、愛工大へ出かけ、久しぶりに大野先生にお目にかかった。
 4月から客員教授になられた大野先生の講義を、私も非常勤講師としてお手伝いするのである。
 テキストは先生の新刊で、『星空に魅せられた男 間重富』と出版月日が1日違いだった。先生から1冊頂戴した。
 勉強しないと講義できない内容が多い。
 大学院の二人の教授にも挨拶できた。ほぼ1年ぶりである。新刊とともに、日本機械学会の論文賞になった論文の別刷りを贈呈した。加えて、その論文の少し前に日本経営学会に投稿した論文が、同じく論文賞になったことを報告した。
 PR効果は大きかったのではないかと想像する。
 ミッシェルで高速を飛ばして帰宅した。
 連載原稿を頑張らねば。
 昨日と同様に、先に寝て、午前1時に目が覚めたのだが、その後はさっぱり能率が上がらず、明け方、また横になる始末だった。やはり疲れがたまっているのだ。
 
3月29日(火)「鬱々とした日・・・の風さん」
 梅の季節が過ぎて、庭の木蓮も盛りを過ぎた。もうすぐ桜の季節がやってくる。
 季節のめぐりは情け容赦なくやってくる。人生の秋も深まってきた。
 東日本大震災の影響で、会社のスケジュールも変更になる。
 毎年恒例の新製品展示会が中止されたため、本社出張を取りやめて、製作所(旧職場)へ向かった。
 バタバタと用事を済ませ、昼食後、新職場へミッシェルで向かった。途中、郵便局で、日本経営工学会の年会費を振り込んだ。
 来月中旬の講演会の事前打ち合わせのため来客があり、たっぷり話し合った。
 かつては業務打ち合わせはきわめてビジネスライクに済ませていたが、昨今はおろそかにできない。貴重な人生の一瞬であり、一期一会を実感するからだろう。年とったということか。
 今日はワイフは名古屋で長女と会っている。子供と対等に過ごすことが増えてきたのだ。
 帰宅すると、タイマーでセットされたご飯が炊けていた。
 冷蔵庫から牡蠣フライを出して、またたくまに平らげた。
 執筆は今夜もはかどらない。

3月30日(水)「バイオリズムも最低か・・・の風さん」
 心身ともにシャキッとしない。疲れがたまっているのだろうか。
 あいかわらず花粉症もひどい。
 新職場で昼休みに懇談会があり、新刊のPRをした。次回の懇談会で、ミニ講演をしたいと提案したら喜ばれた。
 たまっている仕事をとにかく片付けようと、なるべく余計なことを考えずに、業務に集中した。
 今日は、職場の戸締り当番だったので、退社時間は遅くなった。
 自分の肉体は確実に老化しているが、ミッシェルのハンドルを握ると若さがよみがえったような錯覚に陥る。
 危険だ。
 しかし、有料道路を快調に突っ走って帰宅した。
 疲れているので、夕食後、さっさとダウンした。
 体力が回復して目覚めたら、それから執筆すればいいのだ。

3月31日(木)「パワー全開は遠し・・・の風さん」
 5時にやっと目が覚めた。
 2時間だけ執筆をしてから家を出た。
 本社へ行き、鳴海風のサポーターの一人である役員を訪ねて歓談した。営業に使うため新刊を受注した。ありがたいことだ。しかし、大震災の影響で自動車メーカーはほとんど操業を中断している。こういうときには、営業はやりにくい。新刊を配ってくれるのは、GW明けになるのではないだろうか。
 本社内で動き回っているうちに、持参してきたサイン入りの新刊が売れて減っていった。
 本社で書店契約している昔の部下にはたったの4冊しか渡せなかった。来週また持って来よう。
 新職場へ移動し、講演会のレジュメの準備をした。
 帰宅し、レジュメを仕上げて、事務局へ送付した。
 毎日何もしていないわけではない。
 しかし、遅い。これでは挽回はおろか、ますます仕事がたまっていく。
 最近の夕食の献立は、ボケ防止食だ。
 夫婦で互いに相手のボケ具合を注意し合う。
 何ともこっけいな風景が展開し始めた。
 昨夜と同じように、体力を回復させるために、先に休むことにした。
 
2011年4月はここ

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